いとうあきら イベントの企画・運営・演出を本業とするも、無類の食べ歩き好きが高じて“食べ手”の視点で店や料理を紹介。過去の書き手になかった大人の切り口で飲食への愛情を示した。著書に『東京百年レストラン(T〜V)』。

2016年11月01日

(95)南青山「いち太」

締めは秀逸のそば。東京らしい日本料理を

踏襲する若き主の攻めの舞台

日本料理は、そこに訪れる客の潜在意識として、京都の料理、つまり京料理とのイメージが強い。関西にも東京にも暮らしたことのあるぼくは、その両方の良さや残念な面を多数体験し私見も持っているが、一番残念に思うのは、日本料理に限って言えば、東京の人はあまりにも京都の匠を神格化しすぎで、京都はまたそんな東京を自分たちより下に見て(あくまで日本料理の世界に限るが)、利用しようという意識が感じられる点だ。

東京から関西方面、特に京都の高級割烹に大挙して訪れ、それが京都での一大マーケットを形成する。京都を神格化している美食家たちは、掛け値なしにうまいすごいと言いつつ高額の支払いをするので、京都にとってはそんなありがたい客はいない。というのも、京都のハイクラスな客層である旦那衆の目は極めて厳しいからだ。「宵越しの金は持たない」とひと晩で散財してしまう江戸の気質と、お金は穢いものとして財布すら持ち歩かない旦那衆とでは、そもそもの立脚点が異なるわけだ。

さらに京都における勘違いを上げれば、例えば薄味とかで画一的に括られるような料理ばかりではないこと。さらにダシが決め手としても、その味わい、香り、うま味すべてにおいて、店主が調味料をどのように使うかとの最終判断はバラバラ。相対的にみれば確かに塩は控えめと思うが、それも習慣や気候風土の問題で京都全体の決まりごとではない。また、祇園の「ユキフラン佐藤」のように、東京の「和幸」で修業をして京都に独立の場を求めた料理人もいて、ぼくが思うには、「京都の料理」と一元化することはかなり困難で、実際は玉石混交なのである。

ただ、東京人の京都信仰もあってか、東京には「京味」に代表されるように京のつく料理店が多い。そしてその料理店のほとんどすべてが京料理ではない。
ぼくが京料理ではないと思う最大の理由は、もちろんきちんと京料理を修めた優れた料理人ながら、東京の人たちに好まれるよう密かに、もしくは堂々とアレンジをしているからだ。

たとえば甘味。京都の場合、塩が強くても弱くても、甘味に対しては一定の基準や申し合わせがあるのではないかと勘ぐるぐらいに安定している。というか、料理の中に出る甘さという味覚は、素材本来のもの以外ほとんど感じさせるつもりもないとさえ思う。いっぽう東京で食べる日本料理には、どこかに甘さを感じるケースが多く、それはきっと関東の人たちがその点を好むからなんだろうなというのが、両方で暮らしたぼくの経験だ。

なので、京都や関西圏で修業をしても実際のマーケットを意識して甘味を加えるなら、初めから東京の地で育まれた日本料理を、きちんと京料理とは違うカテゴリと認識しながら食べる方が愉しいし間違いないと考える。

そして、東京の日本料理だなあとつくづく思う店に、銀座と新宿御苑にて営む「矢部」がある。「矢部」には、新宿御苑の前で、今はお弟子さんの「せお」になっている場所にて開業した最初のころから通っているが、その場所を譲り受けた「せお」をはじめ、西麻布の「豪龍久保」と、大変優れた東京発らしい料理を提供する独立組があるが、今回取り上げるのは「いち太」である。

「いち太」は南青山の奥、どちらかというとアパレルやファッション関係のブティックや会社が集まってそうなエリアにあるが、この界隈にはポツポツと光る飲食店も存在する。メトロの最寄り駅からは少し離れていて、しかも、外苑西通りを下るというロマンチックなアプローチもあり、カップルでぶらぶらと歩きながら訪れるにもふさわしいエリアなので、できればタクシーを使わず、最寄駅から徒歩で訪れたい。

「いち太」は、入口が判別しにくい比較的大きなビルの一角にある。もちろん暖簾もでているが、初めて訪れたときビルを一周してしまった。
店に入ると、いかにも若い料理人がきびきびと働けそうな機能性や効率のよさを秘めたバランスのいいレイアウト。昨今の和食系に見られる画一的な照明やカウンターとは異なり、奥行きと可能性を蓄えた感じが好みだ。

もともと「矢部」の最初の店は大変狭く、狭い厨房に若い衆がひしめき合っていたので、より「いち太」が広く見えるといこともあるだろう。
店主は若く、若々しく、声にも張りがあり歯切れがいい。カウンターなど対面式の料理人には願ってもないキャラクターだ。同業者、客を問わず、先輩にも後輩にも好感を持たれるタイプで、料理が出てくる前にすでにすっかり魅了されていた。

料理人にはもちろん様々な型があるが、店主は常に前向きに攻める派。ひとつひとつ丁寧に料理や食材に対し言葉を費やすことを厭わない。それをよしとするか否か。べらべらしゃべるのは言い訳や自信のなさとも受け止められがちだ。それゆえある程度好みに分かれるとこだが、店主の受け答えはそれをよしとするに足る誠実さと意欲、なにより食材への愛にあふれていた。

前述の「豪龍久保」もそうだが、「いち太」も修業先のテイストを感じさせられる部分はほとんどない。総じて修業先からのブレイクスルーに成功しているからこそ独自性が見つかるのかもしれない。ただ「いち太」は、最後にそばを出す。そのそばのあまりのうまさに驚き唸る。表現はあまりふさわしくないが、今まで食してきた料理のすべてを忘れそうになるぐらいなのだ。

修業先の「矢部」もコース料理の最後にそばを出しランチタイムはそばを中心にした展開である。その点だけは修業先のままを貫く(ランチのそばはやっていないが)。そして自分も、そのこだわりが東京における日本料理の魅力とオリジナリティではないかなと考える。

京料理を想起した場合、最後のご飯に栗や豆などを使用し一番の甘みを感じたりすることも多い。いっぽう、最後をキリッと辛口のそぱでしめる。まして様々に飲み食いしてきた後の麺ののどごしの快感は誰もが頬を緩めることだろう。
それを「いち太」が踏襲した点も、東京で日本料理を営む上でのある種の匂いを嗅ぎ取っているのではないかと感じた。最後の炭水化物はご飯である必要はない。まして、そば打ちに対する見識も技量も一流とあらば。
そば屋でもないのに、あのそばをもう一度食べたい。そんな再訪動機もまた、食べ手にとっては重要なのだ。

「いち太」
●東京都港区南青山3-4-6 AOYAMA346-1F
●03-6455-4023
●17:30〜LO21:00
●日祝休
posted by 伊藤章良 at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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