いとうあきら イベントの企画・運営・演出を本業とするも、無類の食べ歩き好きが高じて“食べ手”の視点で店や料理を紹介。過去の書き手になかった大人の切り口で飲食への愛情を示した。著書に『東京百年レストラン(T〜V)』。

2021年03月01日

(143)幡ヶ谷「ウィル・オ・ウィスプ」

コロナ禍で静かに、熱く
現れたネオビストロ


「ウィル・オ・ウィスプ」、つまり鬼火というすごい名前の、というか飲食店、ましてやフランス料理店の名前とは思えないレストランが昨年2月にオープンした。店名でまず度肝を抜かれ、訪れて、あまりの駅近に驚嘆した。京王新線・幡ヶ谷駅、階段を上がってすぐ。しかも、奥まった露地とかではなく商店街の通り沿い、以前はカメラ屋だったという。そういえば、駅を降りてメインストリートを歩くと、一軒はカメラ屋さんがあった時代の記憶はまだ新しい。

店名を見ても何屋さんかわかりにくいし、フリで入る人は少ないと思う。でも、ガラス扉越しに見えるシーンは、なんだかとてもおいしいものがいただけそうな気配がムンムンだ。

入ってすぐぼくの目をひいたのは、壁側に置かれた本だった。時代を感じる茶色の背が徐々に赤くなっている。これはミシュランガイドか。その店に行くために空港まで作られたと聞くフランスのミシュラン三つ星レストラン「ジョルジュ・ブラン」の書庫で見たものと同じ風体。まったく違う書物だったが、とても存在感があった。

もう一つ美しいのは、細長い店内の奥に設けられた個室のさらに奥に見える木である。もみじだそうだ。日当たりが十分ではないので真っ赤に色づかなかったんですとシェフは残念がる。このレイアウト、風が店内をまっすぐ通る感覚に、ぼくはふと、京町屋を思い出していた。

カウンター席の椅子は、しっかりと食事を提供するレストランにしては背もたれのないスツールだった。おやっと思いつつ腰掛けると、少し沈んで抜群の座り心地。足を置く位置とのバランスまで計算され尽くしている気がした。

カウンターの目前で相対したシェフの光安北斗さんは、まったくギラつきがない人だった。たいていの料理人は多くの野心や向上心にギラついているもので、ぼくはそれも嫌いではない。いっぽう光安シェフは、パリに7年いてヨーロッパ各地を旅しましたとサラリと言うも誇張や気負いはなく、穏やかなカリスマ定員のような佇まいだ。滞在中、シェフが一番表情を変えたのは、壁側に置かれたターンテーブルを見つけ、今度来るときレコード持ってこようかなと言ったら、ぜひぜひお願いしますと答えた瞬間だったかもしれない。

この店に占める重要なくつろぎポイントは、音だ。まず、この規模の飲食店では抜群にBGMの音質がよく音量のバランスも巧みだ。自分にはほとんど馴染みのない日本語の歌が多かったが、フランスのラジオ放送を聞かされるよりずっと快適。店舗が細長いので、他席の喧噪があまり気にならない。カウンターとキッチンが近いので、町中華レベルで調理の音が聞こえ、それがまた心地よいリズムなのだ。

記憶に残った3種の料理を紹介する。「鹿肉とジャガイモと栗のグラタン」とメニューにあったが、キッチン内ではアッシュ・パルマンティエと言葉を交わしていたので栗のことをすっかり忘れ、この甘味はなんですかと聞いてしまった。グラタンのひと言では表現しきれない、奥深い料理だ。グラタンに続いてロールキャベツ。こちらは、ロールキャベツというよりキャベツ包み(同じかな)。そして中身はアンドゥイエットと称してもいいぐらい、獣全体から抽出された肉の調和が絶妙だった。

快調に白赤2本を飲んだが、最後に赤ワインを少し残した状態でポテトフライを。揚げる音が心地よくて、最後におつまみ感覚で注文しようと決めていたが大成功。カリッとした完璧な食感と塩加減、すべてがプロしかできない技。次回はコレと赤ワインだけで過ごしたいものだ。

コロナ禍突入寸前の昨年2月にオープン。席数もそこそこあり横に長く可動域も広いダイニングを守るスタッフは、シェフを含めた総勢3名。すべて“仕事ができる”メンバーで、このチームを崩さない。メニュー数を絞り切っていて最初は少し不満も感じるが、頼んだすべてが記憶に残る満足で満腹な構成。店舗の個性や料理はもとより、経営者として大変すぐれたシェフなのだと納得する。新しい生活様式が求められる時代も逞しく生き抜いていかれるであろうと末永く期待する。

ウィル オ ウィスプ (will o wisp)
●東京都渋谷区幡ヶ谷1-33-2
●050-5872-2761
*非常事態宣言中の営業時間等は直接お問い合わせください。
posted by 伊藤章良 at 08:27| Comment(0) | フランス料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする